G-FER00YNYP3
雑記

電車の中から見た光景について

あけましておめでとうございます。

久しぶりなんでリハビリとして、短く書きたい。なんでもない思い出について。

去年の夏頃、私が通勤のため大阪市内の電車に乗っていた時の話。
私は座席に座って、対面側の窓から見える景色を眺めていた。

途中、停車した駅で制服を着た女の子が乗ってきた。
その子は閉まったドアにもたれかかると、
そのままスマホを触るわけでも本を読むわけでもなく少し俯いてじっとしていた。

えらく沈んだ雰囲気だなと思ったが気にはしなかった。

しばらくして、電車は河川敷にさしかかった。
その河川敷では少年野球チームが練習をしていたり、
カップルがのんびり歩いていたりと、暖かい時間がいつも流れている。
その日もそんな感じだった。

その幸せな景色を背にして、まだ女の子は俯いていた。
窓側から指す光が逆光になって、外の景色はより明るく、その子の表情はより暗く見えた。
私はその「絵」をみていて、なんだか綺麗ですこし驚いてしまった。

人生の中で、華やかな世界に背を向けたくなるタイミングというのは存在する。
幸せな光景や、賑やかに盛り上がる人たちというのを直視できないときがある。

仮に、あの子があの時そういった感情だったとして。
華やかで幸せな世界(=河川敷の景色)を今は見たくなかったとして。

そんな様子が、すべて俯瞰で見ている人間からすれば綺麗に見えたりするというのが驚きだった。
当人(女の子)からすれば皮肉なことであるが、
「ああいやだ」と思っている当人含めて美しく見えてしまうのはなぜなんだろうか。

華やかな世界と、そこに交わりたくない人が私の目に映るひとつの「絵」の中に同居するとき、
私は大抵後者側に感情移入してしまうので、なんとなく見てられない気持ちになる。

私が華やかな世界から離れたいときは大抵、その世界への劣等感とか勝手な敗北感によるものなので、
他の人も少なからずそうなのだろうと決めつけてしまう。
だから、そこから逃れるときはどこか情けなさが伴う。

だから見てられない。見てあげないでおこうと思ってしまう。

でも、この時は見ていられた。
むしろ美しい光景として見てしまった。

この時は、偶然それが美しく映った。
これがなんでなのかとか、今回そんなことを考えるつもりはないが、
世の中には、何かを見ている自分をさらに俯瞰で見ている存在って意外といるのだなと思った。