何回もバイトに入る
心の声メロディ化計画とは (1曲目 お別れの歌-never young beach)
※上の記事を読まなくても本記事は楽しめます。参考まで。
私は先日まで一人暮らしをしていたが、えらく面倒なことに電気代と水道代をコンビニ払いで清算していた。
毎回、その金額を財布から出してレジで払う方が節約意識が高まるかと思ったため、
というのは建前で、
実際は口座引き落としに切り替える手続きが面倒くさかったからである。
毎月、利用料が記されたこういうやつ↑が家に届く。
そして意味もなく期限日ギリギリまで過ごし、前日か前々日にのたのたと最寄りのローソンに向かった。
夏や冬になると電気代はそこそこの金になるので、
レジに行く前にATMで金を卸すことが多かった。
その時点で私は被害者意識に苛まれている。
なんだか金を巻き上げられたような気になっている。
そしてせっかく卸した金をレジに持っていき、そのうちの多くを店員に渡す。
当然、引き換えに何かもらえるわけではない。
ローンや分割払いでも同様だが、すでに受け取った物品やサービスに金を払い続けると言うのは苦しいものである。
えーい、買ってしまえと思う瞬間は誰しも上機嫌である。
当然、その後に毎月引き落とされる額が与えるダメージのことは考えていない。
しかしそんなこと買い物の時点から考えていたら買い物は楽しくない。
えーい、買ってしまえ、くらいで買い物は丁度いいと思う。
ただ生活費というものは違う。
私は何も貰ってないし、特別なサービスを受けたわけでもない。
今日を生きる、を30回くらい繰り返したら、まとめて月費として請求されるのである。
こんなに辛いことがあるだろうか。
私はある日、家に届いた請求書をピアノの譜面台に置き、
書面にある文章を歌詞として適当に弾き語ってみた。
これが意外と楽しかった。
シンプルな料金のお知らせのハガキより、催促の旨を記したハガキの方が語気が強いので、歌のメッセージ性が強くなる。
そんなことをしていると、あの歌のフレーズが頭をよぎる。
コンテンポラリーな生活 「化け物になれば」
(石風呂Pという名義で作曲活動も行う朝日廉がボーカルのバンドであり、同氏はネクライトーキーというバンドにも所属している。)
これが素晴らしい曲である。
この曲の本体は歌詞部分にあるのだが、
現在進行で燻っているアーティストの苦悩から、
徐々に人生への不満へ話が切り替わっていく。
12月のワンマンライブ
チケットはソールドもしてないし
何年これを続けるだろう
泥を泳ぐような
うーん、文字通り泥臭い。
私は書き手のドキュメンタリー性が強い作品に弱いので、こういうのはぐらりとくる。
何回も何回もバイトに入る
それでもお金が貯まらんのはなんでだろうな
どうしようもない歌詞だが、どうしようもなく真理である。
俺は金を使ってないんだ。
ヴィトンもブルガリもグッチもエルメスも買ってない。
ユニクロすら別に買ってないのに金がない。
阿呆というものは、金がなくなる理由というものを本気で把握していない。
なぜなら全ては人生における必要経費だと思っているからである。
たばこは吸わなきゃやってらんないから仕方ないし、酒もおんなじ。
ライブは辞めるわけにはいかないし、打ち上げだって外れるわけにはいかない。
仕方ない、と思って払った分に関しては、使ったという感覚がない。
金とは気づいたら消えているもので、
風で飛ばされるくらい軽いか、水溶性だと勘違いしている。
ライブハウスに払うノルマ代やCD制作に使う金、
嫌々向かった打ち上げで払ったウン千円も全て必要経費だったのだ。
ところで、経費というものは建て替えればいずれ返ってくる。
それはこの曲でいうと、夢を叶えることで返ってくるのであろう。
ビッグになれば、何倍、何十倍となって返ってくるかもしれない、
しかし当然、返ってこないかもしれない。
その一縷の望みにかけて、泥を泳ぐような生活である。
最後に豆知識だが、一時期私が一人暮らしをしていた福岡では、
ある一部のATMで金を下ろすと、
手続き後に軽快な声で「またきんしゃい」と言われる。
去り際、後ろから聞こえるその声は、私の背中を一層丸くさせた。