夕方には僕も終わりだ
心の声メロディ化計画とは (1曲目 お別れの歌-never young beach)
※上の記事を読まなくても本記事は楽しめます。参考まで。
いきなりだが私の話をさせてほしい。
明日が休みだという日の夜は、明日何をしようかと無意識に計画を建てている。
朝は早めに起きだし、午前中から街に出かけ、買い物なり用事なり済ませて、午後は何か創作に打ち込み…
と明日の自分にとんでもない期待と重荷を背負わせる。
何かを他人に任せた人間というのは実に気楽で背負うものがないので、清々しい気持ちで眠りにつく。
ここで記憶は途切れ、気づくと次の日の夕方になっている。
夕方まで寝過ごしたわけではない、ということだけはわかる。
しかし、全身麻酔から目覚めた患者のように私の脳はクリアである。何も詰まっていないという意味で。
いやいや、そんな訳はないとよーーーく思い出してみる。
すると、だらだら見たyoutubeや行儀悪く食べたポテチの記憶が蘇ってくる。
私は意識を失ったわけではない。正真正銘、この私が貴重な休日の時間を空費していたのである。
山月記の李徴ほどの熱量で過去を悔やみながら、「夕方には僕も終わりだ」と頭の中で歌うのである。
少し話題が逸れてしまうが、「何もしない休日」というのはどんな内容の1日を指すのか考える時がある。
何もしない、と言っても、朝起きたり、ご飯を食べたりなどはするはずなので、言葉そのままの意味の「何もしない」ではない。
おそらくだが、「わざわざ人様に話すほどのことはしてない」日のことを指すのではないか。
食事や睡眠などは、まあ生きるために必要なことなので行動としてはノーカウントとしても、
・「youtubeをみる」
これも「なにかした」には入らないだろう。
まあ何か一つのコンテンツばかりを見続けた(ミルクボーイの公式チャンネルの動画すべて観るなど)わけではない限り、「何観てたの?」と聞かれても「色々」としか答えられない。人様に説明できないのだからノーカウント。
・「散歩」
時は金なりと小学校で習う今の時代、年寄りでもない限りなかなか「散歩しよう」とはならないが、
「何か目的を持って出かけたが、特に収穫なく帰宅」した場合、これは散歩になってしまうのではないか?
どこ言ってたの?と聞かれて「ぶらぶら」としか答えられないなら、やはりノーカウントである。
・「昼寝」
意識を失っているためノーカウント。
このあたりは「何かした」にカウントできないのではないか。
人によっては「筋トレ」や「楽器を弾く」などもノーカウント組に入るらしいが、
私にはレベルの高い基準に思える。
先に書いた「記憶が飛ぶ」ような経験(もちろん例えであるが)をなんども重ねていると、
休日というものへの期待値とモチベーションが著しく下がっていく。
夕方で記憶が戻ったならそれから有意義にすれば、という話でもあるが、
夕方以降に「有意義」な何かを行おうとすればどこかそれが義務的になってしまうのである。
すると自由なはずの休日が自由でない。
ならばいっそこのまま「ノーカウント行動」でずぶずぶと1日を終わらせてしまおう。
我ながら意識が低すぎてため息がでるが、
人様に話さない心の声や心理など、これくらい情けないものである。
と、いうより人様に話せない内容ならこの考えもノーカウントになるのか、と思ったが、
「人様に話すほどのことではない」のでなく、
「ろくでもなさすぎて人様には見せられない」
からおそらくセーフである。
かくゆう今も、休日も無駄に終わらせまいと1記事書いてから眠りにつこうとしている。