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週刊 結局やらない

これからの人生どう逆転しても、ぼくはJリーガーになれない

 

然だが、現在26歳の私が今からJリーガーになることは不可能である。

絶対に不可能である。

 

まず私は日常的にサッカーをすることがない。
そして学生時代はサッカー部でもなかったし、
なんなら体育の授業以外は、正式なルールの元プレイした覚えがない。

そんな私が、なんらかの理由で「Jリーガーになりたい」と強く思ったとする。
それはもう石のように硬い決心だとする。

 

 

 

 

でも、なれない。絶対にだ。

人生において新しいことを始めるのに「遅い」ということはないが、
それで一番になりたいのであれば早く始めるに越したことはない。
特にスポーツがそれに当てはまるのは言うまでもない。

こんなに「絶対無理」だの「不可能」だの言っていると、
こういったことを言い出す方がいるはずである。

 

「人生やってみなきゃわからない」
「死に物狂いでやってみろ」
「挑戦する前から諦めるな」

というような。
まあ良いことは言っていると思う。
強く生きるのには必要なマインドである。

さて、ここからが本題である。

もし、私が本当に今からJリーガーになることを夢見る中、
周りの人間が先ほどのような言葉をもって全力で背中を押したなら、

私はその気になって、本当にJリーガーを目指してしまうのだろうか?

 

かつて皆さんの周りにも、壮大な夢を抱く人間というのはいただろうか?
その人間の背中をあなたは押しただろうか?

私のJリーガー化計画において、
その背中を押す行為ははっきり言って絶望に突き落とすも同じである。

なぜなら、なれないからだ。
こんなに何度も言うと、私が人生になんの希望もない人間かのようだがそれは違う。

私にだって目標はあって、
「これにはなれるだろう」、「自分ならなれるはずだ」というものはある。
ただそれがJリーガーでないというだけだ。だからあっさりと「絶対無理」と言い切れる。

映画やドラマで病床の人物が「俺はもう長くない。自分の体は自分が一番わかる」というのと同じくらい、冷静に言い切れる事実である。

 

若干話は逸れたが、
Jリーガーに憧れる気持ちで鼻息荒くしている私に、
周りの人間が「今からでもなれる」可能性を示し続けたら、目指してしまうのだろうか。

「あきらめない」ことの大切さを説く言い回しや格言など日本には腐るほど溢れている。
諦めないための説得をするには最適すぎる環境だ。

そう、「説得する側にとっては」である。
「諦めない」「可能性を信じる」ことの美しさを説く環境は、
夢を追う人間にとって良い環境なのだろうか。

ひとつ、本当にほんとうに恐ろしい話をするのだが、
私がJリーガーになれないと言い切れるのは、
先ほど言ったように他のものにならなれる希望や自信があるためだ。
まあ例えばプロの棋士(囲碁や将棋のプロ)としよう。

この「〇〇」にならなれるが「△△」にはなれない、
という意識は、実は極めて不確かなものであるのだ。

つまり本当のところは、「〇〇も△△にもなれないが、××にならなれる」だが、私は××の可能性など死ぬまで気づけないかもしれない。

また、「なれないと思っていた△△にならなれるが、〇〇は好きなだけでなれない」かもしれない。

その事実は、自分ではわからない。
じゃあ誰ならわかるか?
周りの人間である。

つまり、「自分の体のことは自分が一番わかる」ではなく医者が一番知っているということだ。

 

自分の周りには、医者くらい冷静な目を持った人間がいる。
その心は確かに冷静であるのに、
当人が夢に向けて希望を示した時、こう言ってしまうのだ。

「人生やってみなきゃわからない」
「死に物狂いでやってみろ」
「挑戦する前から諦めるな」と。

これは悲劇である。
別に周りは当人の邪魔したいわけでも陥れたいわけでもない。
むしろ成功は祈っているだろう。

ならなぜ背中を押すかというと、当人の意思を尊重したいから。
そしてそれを止める義理は自分にはないからだ。

 

 

無責任な「背中突き飛ばし事件」が今日もどこかで起こっている。

それは時に応援ソングなんかに姿を変えて。
だから私は、「君ならできる」と当人の顔も人生もなんも知らないのに歌う歌は好きじゃない。

でも人生を知ったところで決意を持った人間の歩みを止める義理など誰にもない。

じゃあどうすればいいのかわからない私は、
今日もサッカー選手のように地面をのたうち回るのである。