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週刊 結局やらない

期限に追われて産み出す作品の魅力について ~大学時代のレポート~

大学生の頃に課題として仕上げたレポート。
その多くのデータがこのパソコンに保存したままになっている。

課題のレポートなど、期限間際になり急いで書いた記憶しかない。
「さぞひどい文章だろう」と思ってファイルを開いたのが卒業して2年後くらいのことだった。

結論、確かに雑でまとまりのない文章であった。誤字脱字も見落としていたり、論じていることの矛盾が一発でわかる様なものも多かった。
ただ、その内容というか、アイデアに関しては正直面白かった。

これは別に自信家とかそういったことではない。
私が昔から持っている考えとして、
「自分の作品というのは自分の好みに寄せて作るので、完成品を眺めて『うーん最高』と思うのは当然のこと」
というのがある。

言い換えるなら、レストランで出てくるプロの料理も良いけれど、
自分の好きな様に調味料だのなんだの加えまくる自作料理もうまいに決まってる、という具合だ。

「いや、自作料理だって思ったのと違う味になることは多々ある」という反論も理解できるので、
やっぱり私が自信家もしくは自分好きの部類なのかもしれない。

ただ、今回のレポートたちに関しては「自分の作品だから」以外に面白いと思えた根拠がある。

それは添削の時間がないことを前提として書いている、ということだ。
まあ、もっとシンプルに「とても急いで書いている」と言い換えてもいい。

レポートの提出日が明日とか、なんなら数時間後なんて状況でじっくり添削などしている暇はない。だからとにかく指定された文字数をクリアするべく書き続けるのだ。

そんな状況が、面白い作品を産むことが確かにある。
なぜなら、脳に浮かび上がったアイデアをノータイムで採用するからだ。

通常、時間がある時の創作というのは、
傑作を産み出すために様々なアイデアを練る。頭の中にはいくつかのアイデアがその候補として浮かんでは消える。
そして「これだ」と思ったものを採用するのである。

創作の手順としては至極真っ当というか、王道というべきだろう。
しかし、この「選出作業」が殺すアイデアもある。

自分の中には、「これが面白いかどうか」という判断基準があり、それに基づいてアイデアたちは採用不採用を決められる。
この判断基準は、少なからず過去の自作品への世間評価を参考として作るものだが、
それは非常に不確かで頼りないものだ。

なんでも良いから完成させた方がいい理由
↑こちらの過去記事でも書いたが、
「これはだめだ」と思って世に提出したものが評価され結果的に代表作となったり、
逆に「これは最高傑作だ」と思ったものが何の評価もされない、というのは「創作者あるある」である。

「あるある」であるのに、皆自分のセンスを押し通し「世間のジャッジ」というギャンブルに挑んでしまう。

しかし、時間がない時というのは、この「判断基準」というフィルターもしくはふるいにかけている時間がない。
「これは面白いのか?つまらないのか? いや、時間がないからこれでいくしかない」と無理矢理GOするのだ。

すると、本来不採用されていたかもしれないアイデアが作品として完成する。
アイデアという時点では不採用であっても、
それが作品という形になった以上、その価値を自分でももう一度ジャッジする必要がある。

すると、それは確かに自分の作品であるのに、
心なしか新鮮で斬新なものに思えたりするのだ。

この時ばかりは、自分は世間と同じ様な目で自分の作品をジャッジできる。

これが、急いで作った作品が面白いと思える理屈である。

(類似テーマとしてこちらの記事も是非。)
「深夜に書いたラブレターは刺さる」は本当か?

 

 

以上ここまで、

実際にノンストップで、なんのフィルターにもかけずこの文章を書いてみた。
もうあえて添削せずにこのまま公開したいと思う。
この文章に提出期限などないが、明日仕事が早いのでさっさと寝たいからである。