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週刊 結局やらない

成功者の失敗談はつまらない、その理由

 

功者の失敗談はつまらない。

失敗談の他、かつての過ちや黒歴史、全てそう。
成功者の語るそれらの話題は総じてつまらない。

理由としては、真に迫るものがないためだ。
彼らがそれらの話題をする時、大抵嬉しそうに、ユーモアなんか交えながら軽快に話す。

4畳半ボロアパートに住んでいた頃の貧乏ネタとか、
借金がバレて恋人に愛想尽かされた話とか、
「尖ってた」せいで周りの先輩にもタメ口で話していただとか。

「そんなこともあったね…まあでもあの頃があったから今があると思ってる。」

私はひねくれているから、そんな言葉で締め括られるトークを聞いていると、
もやもや、イライラして心が黒くなってしまう。

この感情の正体はきっと嫉妬である。
ただ、現状成功している彼らの立場に嫉妬しているのではなく、
「もうあの場所には戻ることがない」という前提で話せることを羨んでいるのだ。

どのみち一緒のような気もするが、私にすれば少し違うのだ。

どんなに情けない過去や黒歴史があろうと、
彼らは成功を収め、すでにそこを「脱出」したのである。

イメージするなら、漫画や映画でたまにある、
砂漠の吸い込まれる流砂。
もがいて這いあがろうとするも、足をとられて進めない。

そこをなんとか脱した彼らは、その渦を外側から見ている。
極めて安全な場所で、かつてもがき這いあがろうとしていた自分の姿を想起し、
懐かしんでいる。

彼らは、今となっては砂漠すら脱して街へ行き、良い服なんか着て優雅に歩いている。
そんな彼らがかつて砂地獄にいたなんてまわりは想像もできないから、
エピソードトークに食いついたりしてしまう。

そんなトークにはなぜ真に迫るものがないのかというと、
彼らは現状「安全」すぎるためである。

危機を脱し、安全な場所から過去を眺める。
厳密にいうと過去の自分を客観的に見ている。

熱を逃してしまう原因がこの客観性であり、
逆にいうならば、自分を外側からなど見られずにもがいている人間が一番熱を帯びている。

もがき続けている彼ら、渦の中にいる彼らは、これから自分が「安全」へ辿り着けるかわからない。
この砂地獄を脱したところで、また砂漠を歩き続けるだけの人生かもしれない。

その不安定さのまま語られる「失敗談」や「黒歴史」は全て現在進行中であり、
限りなくリアルタイムなドキュメンタリーである。

想像して欲しい。
バンドでのブレイクを目指し上京するも芽が出ず、バイトしながら毎日を食い繋ぎ、
スタジオ練習が終われば狭いアパートに帰り、
たまに仲間を呼んだかと思えば新人アーティストの愚痴など言い合う。

こんなどうしようもない人間の「失敗談」や「黒歴史」。
決して愚痴のような攻撃的なものではない。

ふと省みる、頼りない過去と不透明な未来。
これほど不安定で救いようのないものがあるだろうか。

聞いていたら伝染でもするのではないかというこの救いようのなさ、
これこそが渦のなかにいる人間にしか生み出せないエネルギーである。

成功者の失敗談と、何もない者の失敗談。
正直、どちらが自分の役に立つかというと成功者の失敗談である。
徳が高いのも、エピソードとしてまとまりがあるのも成功者の話す方だろう。

それでも私が「何もない者の失敗談」の方が好きだと言えるのは、
彼らの話には続きがあるからである。先ほども言ったように全ては現在進行中なのだ。

ただ、情けない失敗談を語る彼らがいつか成功した時、
つまり一種の「完結」を迎え、脱出に成功した時。
その時は、彼らを成功者として見て、喜んで失敗談を聞きたいと思うのである。

つまりはその過程を見ているかどうか、自分にとってドラマ性、ドキュメンタリー性を感じられるかどうか、なのかもしれない。

 

偉そうに語っているが、私は当然「何もない者」側であり、
「彼らが成功したら~」とか言っている場合でも立場でもない。

私もきっと渦の中にいるのだろう。
だからこのサイトに書いている気持ちやマインドもいつかは懐かしくなるのかもしれない。

だから私は今の気持ちやマインドをここに閉じ込められたならと思う。
なるべく熱量そのままで、ヒリヒリしたまま残せたらと思う。