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雑記

「余計な心配」に打ち勝つためには

 

心配事の9割は起こらない、といったようなタイトルの本があった気がする。

その通りであると思う。
杞憂という単語を小学生のときに覚えたような私なので、「ああなったらどうしよう」ばかりの人生を送ってきた。
結果そのほとんどが余計な心配に終わったのだが、それでも心配をしてしまう。「ああなったらどうしよう」が常に心のどこかにいるのだ。

常に「最悪の事態のシミュレーション」に頭の容量が一定量使われる。
私が軍の司令官なら適正であっただろうが、今現在何の肩書きも抱えてないので只生きづらいだけである。

さて、私が心配性であるのはわかっていただけたと思うが、ではその具体的な内容やエピソードを語れと言われると案外思い出せないものである。

それもそのはず、心配事というのは「余計な心配」に変わった瞬間忘れられるものだからだ

家の鍵をきちんと閉めたか、職場に着いてから不安になったとする。
その日を「閉めてなかったらどうしよう」で過ごして、仕事が終われば小走りで家に帰る。
ちゃんと閉まっていたのをみて「ああ、、よかった、、」。

それ以降この気持ちが残り続けることなどない

閉めたかどうか心配だったが、実際ちゃんと閉めていた。
そうとわかればこの一連の出来事と気持ち自体、記憶からクリアされる。

理由は単純で、心配を抱え続けるというのはストレスだからだ。
消せるストレスはさっさと消したい。

これは人間として当然の心理で、
合理的な仕組みとも言えるだろう。

 

 

しかし。
「過ぎた余計な心配」、忘れるべきではないかもと私には思うときがあるのだ。

先に断っておくと、
「『鍵をかけたか確認しなかった』という心配を次に活かすため」
などと厳しいことを述べたいのではない。

「過ぎた余計な心配」が過去に山ほどあったことを覚えていれば、
今回も杞憂に終わるはずだと信じられるからである。

鍵の件でいうと、
「鍵をかけたっけ?の不安は今まで何回もあったけど、実際かけ忘れたことはここ数年なかった」を信じられたならその日をハラハラせず過ごせるのでは?と私は思うのである。そのために過去の記憶が必要なのだ。

ポイントとして、「実際にかけ忘れたことはここ数年なかった」という事実だけを覚えていればいいわけではない。
「かけ忘れてたらどうしよう」で冷やした肝から滲んだ汗、小走りの帰り道までみっちり覚えておくことだ。(かなり極端にいえば、である)
それにより「あんなに焦った、あんなに心配した、でも大丈夫だった」が〇〇回あった、という理論がよりリアルなものになる。

あんなに忌まわしいと思った心配性の心。
しかしそのせいで生まれた経験こそが、自らを楽にしてくれるのでは?と思うのである。

 

 

もし10人がこの記事を読んでくれたなら、「なるほど」と言ってくれるのは3人くらいかなと思う。その3人はおそらく私と同じ心配性である。

7人の意見もなんとなく予想できる。
「そのほうがつらそう」と冷ややかな視線まで浮かぶ。

しかし、今もすでにつらいのである。

目指すべきは鍵をかけ忘れない人間ではない。
「たぶんかけてるだろう!」→ 帰宅 →「あ!かけ忘れてた!いけね」で済ませられる人間である。

いや、鍵を例えに選んだせいでこんな不用心馬鹿を目指す羽目になってしまったが、
こういう心持ちが必要ということだ。

悪いことは、起こってから青ざめればいい。
本当はそのはずなのだ。
余計な心配なんて、やめよう

 

 

 

分かっちゃいるけど やめられねぇ
ア ホレ スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ
スイーラ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ              植木等「スーダラ節」より

 

そう、わかっちゃいるけどやめられねえのだ。
結果、心配性だろうがなんだろうがそれを重く受け止めないのが良いかもしれない。

最後になったが、近頃物騒な事件も多いので、鍵はちゃんと閉めましょうね。