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音楽コラム

(後編) 暑い日は「溶けそう」で、自分が嫌な日には「溶解しそう」

前編からの続きである。

前編では「溶けそう」と「溶解しそう」、
人の心情を表す言葉としての、二語のニュアンスの違いについて説明した。

そして、それぞれのイメージを説明するにぴったりの曲があるので、
後編ではそちらを紹介していきたい。

 

まず、「溶けそう」のイメージを持つ曲。

 

続いて、「溶解しそう」のイメージを持つ曲。

神聖かまってちゃん「フロントメモリー」

曲名からわかるようにこれらは同じ曲であり、後者が神聖かまってちゃんによる原曲、
前者が2018年公開の映画「恋は雨上がりのように」の主題歌としてアレンジ&カバーされたものである。

アレンジが元東京事変の亀田誠治氏、ボーカルは鈴木瑛美子氏が務めているのだが、
このタッグがおおよそどハマりといった感じだった。

すべてが王道という他ない。
ふんだんに使われたストリングスが臨場感、疾走感を演出。
後ろで細やかに鳴るピアノの音も軽やかで小気味良い。
近年のJ-popにおける「疾走感ある夏曲」アレンジの大正解がこれといった感じだ。

そこに乗るボーカルもとっても良い。
鈴木瑛美子氏は飛び抜けた歌唱力を持ちながらそれをわざとらしく見せつけることはなく、バラード曲なんかとは違った意味で軽やかに「歌い上げて」いる。

 

そんな鈴木瑛美子×亀田誠治バージョンと比べ、原曲のアレンジは強いクセがある。
続けて聞くと、その食べにくさにびっくりするだろう。

全ての音色がばらばらに流れているような不揃いさ。
ピアノのリフは妙に音がデカく、頭の中でぐわんぐわんと鳴るよう。
なにより、ボイスチェンジャーレベルに声色をいじられたボーカルは人間味がなく、不気味さがある。

なんというか、全部が噛み合っていない。うまくいってない。
その感覚が100点で再現されている。

これこそ「溶解しそう」の感覚に近い。
鈴木瑛美子×亀田誠治バージョンの後に聴くとよりわかる、うまく汗をかけていない感じ。

汗=不快感=ストレス=毒
のように何に言い換えてもいいのだが、とにかく自分の中で嫌なものがぐるぐると回っていて出ていってくれない。
それを意識するせいか、さらに体内で猛威を奮って不快感を高めている。

それを体の外に出すことができないのだから、もうこの体はダメになる他ない。
限界を迎えたかのように「ドロォ」と溶解する。しそうになる。

これに比べたら「溶けそう」はなんと健康的であろうか。
だって汗をかけるのだから。

それぞれの曲から説明したい二語の違いはこんなところだが、
アレンジされて圧倒的にキャッチーになった鈴木瑛美子×亀田誠治バージョンに、原曲が喰われてしまったかというとそんなことはない。

この不健康さしか受け付けない気分のときがある。
原曲バージョンしか聞きたくないときもあるのである。

どんなに負のエネルギーを孕んだ作品であっても、それを過去の心情として「言い当てられた」人間にとっては、それは美しさの他なんでもない。
私も、ときに感じる「溶解しそう」をこの原曲バージョンに言い当てられた以上、魅力を感じる他ない。
また、「生まれ変わった」というくらいアレンジされても、原曲とアレンジバージョン、きちんと魅力の棲み分けができるのは作詞作曲の「の子」氏の力である。