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音楽コラム

あと100回リフレインしてくれ、クリープハイプ!

 

同じワードを同じメロディで何度も繰り返す。

こういった曲のことである。

クリープハイプ/手
はまさにそういった曲だが、聴いてみてどんな印象を持たれるだろうか。
私は最近、これが気持ちよくて仕方がないのである。

本来、
「同じワードを同じメロディで繰り返す」という手法で良い印象を持たせるのは難しい。

理由は単純で、しつこいからである。

どんなことにおいてでもである。人間、同じセリフを何度も繰り返されると煩わしい。

メロディでもそうだ。
どんなに美メロであっても、何度もなんども擦られると、実にくどくなってくる。
(スーパーで流れる某呼び込みマシーンのテーマも、本来は美メロなのかもしれない。)

なのに。クリープハイプにこれをやられると、私は気持ちよくて仕方がない。
繰り返されるほどに「もっと、もっとくれ」という気分にさえなる。

もっとも彼らは、この手法と相性が良いのである。

別の曲でも、また繰り返している。
やはり聴いていて気持ちがいい。

このリフレイン法とでもいうべき手法を、彼らは多くの曲で取り入れている。
おそらく中毒性というものを確信犯的に取り入れているのではないかな…と思ってしまう。

なぜ、このリフレイン法とクリープハイプは相性が良いか?

そもそもリフレイン法というのは、作曲においては非常にリスキーな作戦だ。
なぜなら、「曲」を作る構成要素の一部を犠牲にしているからである。

具体的には、「メロディ」と「言葉」の移ろいである。

「美しいメロディ」を言い換えるならば「美しい音程の移ろい」であるが、
厳密にはメロディとは「連続する楽音の連なり」のことであり、音が上下する必要はない。

わかりやすくいうと、ピアノでずっと同じ「ド」だけを弾き続けていても、メロディといえるということだ。
しかし、実質的な話でJ-pop、J-rockを聴き慣れた我々がそれを「美しい」と思うのは難しい。

なので、リフレイン法を選んだ時点で「美メロ」は諦めていると言っていい。

そして言葉の移ろい、これも犠牲になっている。
いわずもがな、同じワードを繰り返して詩的な印象を与えるのは難しい。
いくら今が2020年であろうと、
同じワードをポエムの中で10回20回と繰り返すのは前衛が過ぎる。

このように、リフレイン法の中ではメロディと言葉の移ろいが「犠牲」になっている。
そう、捨てられたのではなく犠牲になった。

その裏で生まれるものはむき出しになった、

「メロディと言葉」以外の要素
である。

メロディに関して。
先ほど、「ド」だけを弾くメロディは美メロになり得ないと書いたが、
これが伴奏、またはベース音であったなら。
違和感は消える。
ずっと繰り返される「ド」をベースにメロディが弾けるし、
実際そういった曲はJ-popでも見られる。

つまり、メロディと伴奏(コード)が一体となっている以上、
メロディがリフレインされれば、もう一方のコード進行が際立つようになるのである。
メロディは捨てられたわけではない。

その姿を一時的に隠すことで、主役の座を譲ったのである。

言葉もそうである。メロディとともにその姿を隠すことにより、曲の情報量を少なくする。
それにより巧みなコード進行や楽器音の爽快な重なり、
そして何よりボーカル尾崎世界観の声を際立たせているのである。

この、「尾崎世界観の声」はクリープハイプというバンドの最大の特徴の一つであり、
リフレイン法と相性が良いという最大の理由でもある。

声が特徴的な歌手など音楽界には腐るほどいる。
その声を目立たせる、知らしめるときに最も多く取られる方法は、
アカペラ、もしくはそれに近いパートを作ることである。

こういう感じ。

他の楽器の音を減らし、その声だけにスポットを当てる。いわば引き算の手法だ。

リフレイン法はどうか。まったく引く気がない。
むしろ足しまくっているように見える。

しかし、ただ繰り返されるだけの演奏、その情報量は限りなくゼロに近い。
つまり、際立たせたい部分への干渉はないのだ。

複雑な足し算に見えたが、実は余計な「+0」が多く紛れているだけであったのだ。

わかっていただけただろうか。

このリフレイン法の仕組みとクリープハイプはがっちりはまっているのだ。

私は好きなことを語ろうとすると、感覚的な部分に頼った説明になってしまう。
今回はうまく伝えられた自信がないが、
とにかくクリープハイプのリフレインは気持ちいいのである。

あと100回繰り返してくれ、クリープハイプ!