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音楽コラム

情景描写「のみ」で描かれるドラマ (TEDDY – 渚に生きる) 歌詞

 

江ノ島の空と海が
パレットの上に残っている
海沿いの灯台 飛んで行く飛行機と
絵を描いている君 眺めてる               (TEDDY – 「渚に生きる」)より

思い出の中の情景を淡々と語る、そんな歌詞。
語るだけ、といってもいいだろう。

過去記事でも何度か書いたのだが、歌詞において情景描写というのは意味を持たない。
「空は晴れ、鳥が歌う」と言葉にメッセージ性はなく、聴き逃しても特に問題ない。

ただ、意味がないからと言って適当に書けばいいわけでもないだろう。
巧みな情景描写は歌詞および曲に豊かさを与えてくれる。

まあ、料理で言うと皿のようなものだろうか。

 

 

TEEDY  – 「渚に生きる」

TEDDYは神奈川にて結成の4人組バンド。約4年間の活動の末、2018年に解散を迎えた。
私はこのバンドを知ったのは悔しながら解散後のことだった。

 

 

今回紹介する「渚に生きる」には巧みな情景描写が多く見られる。
その表現力で「思い出の中の夏」を繊細に描いている。

車道側 歩く坂道 無人交番前すり抜けて
二人乗りで帰る 軋む黒い自転車が
「君が重いわけじゃない」と笑っている       (TEDDY – 「渚に生きる」)より

以前紹介曲のように生々しく、ゾッとさせられるようなリアリティではなく、
「ああ、きっとこれは実体験なんだろうな」と思わせる微笑ましさを持った、そんなリアリティである。

冒頭の引用の歌詞含め、比喩も面白い。
「聴き逃しても問題ない」とは言ったが、少しもったいなく思わせる。

 

しかし今回、メインで語りたいのは「情景描写の美しさ」ではない。
歌詞部分についてなのは違いないのだが、「渚に生きる」は近年の邦楽詞の中でも珍しいギミックを取り入れている。

というのも本曲の歌詞、ほぼ情景描写のみで構成されているのだ。

踏切が開く前に君の目をこぼれ落ちた
悲しそうな声で「大丈夫」と笑い テトラポッドを意味もなく眺めている

踏切で流す涙 はぐらかし君はどうして
袖のないワンピース 日焼けが嫌だとそばかすをつけて笑う

(TEDDY – 「渚に生きる」)より

上は一番のサビである。やはり、思い出の中にある情景を描くことに徹している。

「大丈夫」が悲しそうに感じたとか「どうして」とか、情景(出来事)に対しての感情も描かれているように思えるが、あくまで、その当時、その瞬間の感情を描いているように思える。

つまり、今現在の自分の「思うところ」は介入していない。

 

これが意外にも珍しい、という話である。

情景描写で描かれているのは紛れもなく当時の場面であるが、
それを比喩などを交えて描いている以上、「今、思い出を振り返って描いている」という事実がある。

にも関わらず今の自身の「思うところ」を付与されていないのはやや違和感があり、意識的なものすら感じてしまう。
と、いうのも邦楽の歌詞では「思い出(エピソード)+それに対し今思うところ」というのはあまりに多く見られる内容だからだ。

と、いうより人間の性として、思い出を想起する以上「楽しかったな」とか「辛かったな」などなんらかの感情が伴うのが普通である。

なぜこんな形で本曲は描かれたのか?
そもそもこれが意識的なものである可能性は低いし、何より情景描写だけで一曲成立させる書き手のおさべたかし氏の群を抜いた表現力に注目すべきかもしれない。(現在は新結成バンドにて活動されているようなので、上のリンクからチェックして欲しい)

が、この手法のもたらす魅力を一つ挙げても良いのなら、
「思い出の中の情景」を改変せず描くことができるという点である。

 

自分だけの思い出、というのは汚されることがないためいつまでも甘美なものである。
しかし唯一犯される恐れがあるとすれば、自分自身の価値観が変わることによる興醒めである。

思い出に対して思うところを書くと、当時の自分と今の自分の価値観の違いを実感するかもしれない。
それによって思い出がより愛おしいものに思える場合もあるだろうし、くだらないものに成り下がるかもしれない。
どちらにせよ、今日思うことを書いた時点で、その思い出の最終更新日は本日になってしまうのだ。

つまり、だ。
歌詞でも小説でもなんでもいいのだが、自分のある「思い出」を限りなくそのまま残したいと思うなら、情景のみを淡々と描くのは最適な手段であるということだ。

過去を振り返ることで教訓を得たり、思い出に浸ったりということもよくあることだが、
「一つの作品に閉じ込めたい」と思えるほど素敵な思い出なら、そういう描き方をするのも一つの方法かもしれない。