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心の声メロディ化計画

また今度飲みに行こう (岡崎体育-鴨川等間隔) 心の声メロディ化計画 5曲目

 

誘える奴も塩田くらいか
アイツはいいや
また今度飲みに行こう

(岡崎体育-鴨川等間隔)

心の声メロディ化計画とは (1曲目 お別れの歌-never young beach)

※上の記事を読まなくても本記事は楽しめます。参考まで。

の世で一番多い嘘は「また今度飲みに行こう」である。
かくいう私もこの嘘を何度とついてきた。

悪気はなかった。
誰かとの別れ際、「じゃあまた」では素っ気なさすぎると思い、口をついて出てしまうのだ。きっと誰しも身に覚えがあるだろう。

社交辞令として適当にいうことが多いが、本当に「飲みに行きたい」と思う時だってある。

「あなたとの時間は楽しかった。
またあなたと会って話したいから、次の機会をください。
いいよね?」

これくらいのニュアンスが込められている。
この思いに嘘はない。

しかし、大抵嘘になってしまう。ふしぎだ。

その理由を自分なりに考えた。

いざ会って話して、話が盛り上がって一緒に笑っていたりすると、
ある程度心が繋がっているように思える。
しかしいざ解散して、お互いに互いのことを忘れて月日を過ごし、ある日ふとその人のことを思い出すと、
えらく距離が離れてしまったように感じるのだ。

あのときこそ何か繋がっていたように思うけれど、
あの人にはあの人のスケジュールやコミュニティがある。
そこに自分が入っていく、
となると勇気と体力がいるのである。

これが約束を嘘にしてしまう理由である。

友達はみなそれぞれの
友達と遊びに行ってんだろうし

(岡崎体育-鴨川等間隔)

歌詞の引用である。
あまりにも私のことを歌ってくれている。

約束が破られていく日々。
私は、この約束が必ずといっていいほど嘘になる、と気づいてしまった。
それからは、このフレーズ自体に物悲しさや無力さすら感じるようになってしまった。

「また今度飲みにいこう」と言ったら「ぜひぜひ!」と返してもらったとして、
相手も本気で「ぜひ」とはいってないな、とわかってしまう。

自分も相手も本気の約束ではない。
つまりその「また今度飲みに行こう」というのは別れ際の合言葉なものでしかなく、もはや言葉自体には何の意味もない。

そもそも、別れの言葉である「さようなら」は
「左様なら(そういうことなら)ここで別れましょう」の「左様なら」よりきている。

「もう一軒行きますか?」
「すみません、門限があるもので」
「左様なら、解散しましょう」

という具合だ。

しかし現代で「さようなら」を「左様なら」と把握して使っている人間はほぼいない。
ただの合言葉である。
「また今度飲みに行こう」も同じようなポジションに変わっていってしまうのではないか?

ましてや2021年現在、コロナウィルスが猛威を振るい、
また今度、がいつか想像もつかない事態である。

するとなんだか「また今度」が夢の話のように思えてくる。

 

私がこの世で最も好きな曲のひとつ、
岡崎体育の「鴨川等間隔」である。

「何かに乗り遅れた人」たちの心情を的確に言い当てては、心臓を握ってくる曲だ。

慢性的な人恋しさや、
若者として過ごせる時間を空費することへの焦り。

そんな感情でおかしくなりそうな僕らを、一つの作品(物語)にしてくれている。
「こんな俺らでもいいじゃん」ではない。
あまりにもありのままに、作品にしてくれているのである。

そんないい作品に出会うたび、やっぱり私は誰かにこの感動を伝えたくなる。
結局は人との繋がりを求めてしまうから、
破られるかもしれない約束でも、懲りずに結び続けるのである。

嘘になるかもしれないと思いつつも、
今日は楽しかった、あなたとまた過ごしたい、
というニュアンスだけでも伝わればと今では思っている。