誘える奴も塩田くらいか
アイツはいいや
また今度飲みに行こう
(岡崎体育-鴨川等間隔)
心の声メロディ化計画とは (1曲目 お別れの歌-never young beach)
※上の記事を読まなくても本記事は楽しめます。参考まで。
この世で一番多い嘘は「また今度飲みに行こう」である。
かくいう私もこの嘘を何度とついてきた。
悪気はなかった。
誰かとの別れ際、「じゃあまた」では素っ気なさすぎると思い、口をついて出てしまうのだ。きっと誰しも身に覚えがあるだろう。
社交辞令として適当にいうことが多いが、本当に「飲みに行きたい」と思う時だってある。
「あなたとの時間は楽しかった。
またあなたと会って話したいから、次の機会をください。
いいよね?」
これくらいのニュアンスが込められている。
この思いに嘘はない。
しかし、大抵嘘になってしまう。ふしぎだ。
その理由を自分なりに考えた。
いざ会って話して、話が盛り上がって一緒に笑っていたりすると、
ある程度心が繋がっているように思える。
しかしいざ解散して、お互いに互いのことを忘れて月日を過ごし、ある日ふとその人のことを思い出すと、
えらく距離が離れてしまったように感じるのだ。
あのときこそ何か繋がっていたように思うけれど、
あの人にはあの人のスケジュールやコミュニティがある。
そこに自分が入っていく、
となると勇気と体力がいるのである。
これが約束を嘘にしてしまう理由である。
友達はみなそれぞれの
友達と遊びに行ってんだろうし
(岡崎体育-鴨川等間隔)
歌詞の引用である。
あまりにも私のことを歌ってくれている。
約束が破られていく日々。
私は、この約束が必ずといっていいほど嘘になる、と気づいてしまった。
それからは、このフレーズ自体に物悲しさや無力さすら感じるようになってしまった。
「また今度飲みにいこう」と言ったら「ぜひぜひ!」と返してもらったとして、
相手も本気で「ぜひ」とはいってないな、とわかってしまう。
自分も相手も本気の約束ではない。
つまりその「また今度飲みに行こう」というのは別れ際の合言葉なものでしかなく、もはや言葉自体には何の意味もない。
そもそも、別れの言葉である「さようなら」は
「左様なら(そういうことなら)ここで別れましょう」の「左様なら」よりきている。
「もう一軒行きますか?」
「すみません、門限があるもので」
「左様なら、解散しましょう」
という具合だ。
しかし現代で「さようなら」を「左様なら」と把握して使っている人間はほぼいない。
ただの合言葉である。
「また今度飲みに行こう」も同じようなポジションに変わっていってしまうのではないか?
ましてや2021年現在、コロナウィルスが猛威を振るい、
また今度、がいつか想像もつかない事態である。
するとなんだか「また今度」が夢の話のように思えてくる。
私がこの世で最も好きな曲のひとつ、
岡崎体育の「鴨川等間隔」である。
「何かに乗り遅れた人」たちの心情を的確に言い当てては、心臓を握ってくる曲だ。
慢性的な人恋しさや、
若者として過ごせる時間を空費することへの焦り。
そんな感情でおかしくなりそうな僕らを、一つの作品(物語)にしてくれている。
「こんな俺らでもいいじゃん」ではない。
あまりにもありのままに、作品にしてくれているのである。
そんないい作品に出会うたび、やっぱり私は誰かにこの感動を伝えたくなる。
結局は人との繋がりを求めてしまうから、
破られるかもしれない約束でも、懲りずに結び続けるのである。
嘘になるかもしれないと思いつつも、
今日は楽しかった、あなたとまた過ごしたい、
というニュアンスだけでも伝わればと今では思っている。