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心の声メロディ化計画

優しい隣人が影で牙を剥いていたり(平井堅-ノンフィクション)心の声メロディ化計画 8曲目

 

優しい隣人が影で牙を剥いていたり

心の声メロディ化計画とは (1曲目 お別れの歌-never young beach)

※上の記事を読まなくても本記事は楽しめます。参考まで。

しい人が怒ると一番恐ろしい。
恐ろしいし、自分が怒らせてしまった場合なら、申し訳ないという気持ちが一層強くなる。

同様に、普段落ち着いている人が取り乱していると、こちらも少し不安になる。
「この人が取り乱すなんて、よっぽどの出来事が起きているのだ」と知らされるようである。

できればそんな姿は見たくない。
優しい人は優しいまま、落ち着いた人は落ち着いたままでいてほしい。

と、いうのは当然、こちら側のエゴである。
喜怒哀楽や表の顔、裏の顔というのは皆が必ず持っているもので、
それを自由に表現する権利も皆にあるはずだ。

優しいから怒っちゃいけない、
明るいから落ち込んじゃいけない、なんてことは絶対にないのである。

それでも、怒らない人というのはいる。
人生でたまに出会う、いつも優しくて、ニコニコしていて、
「この人って怒ったりするのかな?」という人。

そういう人だって、「怒」という感情がないわけではないから、
どこかしらできっと怒ってはいるけれど、それが認識されることがないのだろう。
「ほんの少しの間、無口でいる」程度が怒りの表現なのかもしれないし、
心許した人にのみ、そんな一面を見せているのかも知れない。

そんな人が、意識的か無意識かはともかく、
ひとつ守っているルールというものがある。

それは「豹変しない」ことである。

「まわりの人のようには怒らない自分」が続いていると、
次第に、周りが持つ自分へのイメージというものがわかってくる。

あの人がいつもヘラヘラしているように、
あの人がいつもタラタラしているように、
あの人がいつもへこへこしているように、
自分はいつも穏やかでいる人間なのだ。

だから、「〇〇さんはいつも穏やか」という常識、または日常を崩さないために、
突然怒りを見せたりはしないのである。

ゆるやかなスピードで見せる怒りというのは、
まわりに、その予感や心の準備を与える。
小さな心のざわめきに備えての予告のようなものである。

大前提として、
「優しく穏やかでいること」も「豹変しない」ことも、
義務ではなく、その人の人柄で行なっていることである。

優しい隣人が影で牙を剥いていたり。

見たくない姿であるが、これは極めて自然に起こりうることだ。

自分にとって優しい人が、誰かにとっても優しいとは限らない。
自分だって、憎らしい奴に優しくしようとは思わないから。

わかっているが、それでも心はざわめいてしまう。
そんな姿見せないで、というエゴの塊のような思いが働いてしまうためだ。

そんな誰かの思いを想像して、どこまで豹変せずにいられるかが、
一種の優しさと言えるのではないか。

自分が突然怒りなんてみせようものなら、
きっと戸惑う人がいる。恐ろしく思う人がいる。

夫婦喧嘩を幼い子供に見せまいとする親のように。
ほんとは見せたって構わないのだが、
自分の怒りの中に混ざる束の間の優しさが、
本当に優しい人の中には眠っているのである。

豹変すまいとする人は、優しい。