優しい隣人が影で牙を剥いていたり
心の声メロディ化計画とは (1曲目 お別れの歌-never young beach)
※上の記事を読まなくても本記事は楽しめます。参考まで。
優しい人が怒ると一番恐ろしい。
恐ろしいし、自分が怒らせてしまった場合なら、申し訳ないという気持ちが一層強くなる。
同様に、普段落ち着いている人が取り乱していると、こちらも少し不安になる。
「この人が取り乱すなんて、よっぽどの出来事が起きているのだ」と知らされるようである。
できればそんな姿は見たくない。
優しい人は優しいまま、落ち着いた人は落ち着いたままでいてほしい。
と、いうのは当然、こちら側のエゴである。
喜怒哀楽や表の顔、裏の顔というのは皆が必ず持っているもので、
それを自由に表現する権利も皆にあるはずだ。
優しいから怒っちゃいけない、
明るいから落ち込んじゃいけない、なんてことは絶対にないのである。
それでも、怒らない人というのはいる。
人生でたまに出会う、いつも優しくて、ニコニコしていて、
「この人って怒ったりするのかな?」という人。
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そういう人だって、「怒」という感情がないわけではないから、
どこかしらできっと怒ってはいるけれど、それが認識されることがないのだろう。
「ほんの少しの間、無口でいる」程度が怒りの表現なのかもしれないし、
心許した人にのみ、そんな一面を見せているのかも知れない。
そんな人が、意識的か無意識かはともかく、
ひとつ守っているルールというものがある。
それは「豹変しない」ことである。
「まわりの人のようには怒らない自分」が続いていると、
次第に、周りが持つ自分へのイメージというものがわかってくる。
あの人がいつもヘラヘラしているように、
あの人がいつもタラタラしているように、
あの人がいつもへこへこしているように、
自分はいつも穏やかでいる人間なのだ。
だから、「〇〇さんはいつも穏やか」という常識、または日常を崩さないために、
突然怒りを見せたりはしないのである。
ゆるやかなスピードで見せる怒りというのは、
まわりに、その予感や心の準備を与える。
小さな心のざわめきに備えての予告のようなものである。
大前提として、
「優しく穏やかでいること」も「豹変しない」ことも、
義務ではなく、その人の人柄で行なっていることである。
優しい隣人が影で牙を剥いていたり。
見たくない姿であるが、これは極めて自然に起こりうることだ。
自分にとって優しい人が、誰かにとっても優しいとは限らない。
自分だって、憎らしい奴に優しくしようとは思わないから。
わかっているが、それでも心はざわめいてしまう。
そんな姿見せないで、というエゴの塊のような思いが働いてしまうためだ。
そんな誰かの思いを想像して、どこまで豹変せずにいられるかが、
一種の優しさと言えるのではないか。
自分が突然怒りなんてみせようものなら、
きっと戸惑う人がいる。恐ろしく思う人がいる。
夫婦喧嘩を幼い子供に見せまいとする親のように。
ほんとは見せたって構わないのだが、
自分の怒りの中に混ざる束の間の優しさが、
本当に優しい人の中には眠っているのである。
豹変すまいとする人は、優しい。