解けかけた魔法が一番辛い
(MOROHA-バラ色の日々 より)
心の声メロディ化計画とは (1曲目 お別れの歌-never young beach)
※上の記事を読まなくても本記事は楽しめます。参考まで。
集中すると人は周りが見えなくなる。
見えなくなる以外に、
誰かに話しかけられても気づかなかったりと、
「聴こえなくなる」もある。
集中するというのはつまり、
自分のまわりにバリアのような膜ができ、
その外で起こることには気づけなくなるということだ。
「自分の世界に入る」という表現があるが、
この場合は自分の世界を作るといったところだろうか。
何かに没頭できるというのは幸せなことである。
趣味でも仕事でも恋愛でもなんでもいい。没頭している人、というのは幸せだ。
というのも、没頭することで、人間はある程度のストレスを消すことができるからである。
たとえば、プラモデルを作るのに没頭するとすれば、
「プラモデルを作る」ことへのエネルギーが体の中心から広がってバリアに変わると思ってほしい。
それにより、自分の中にもとよりあった不安や苛立ちがバリアの広がりによって外へ押し出され、当然外よりやってくるストレスもバリアで跳ね除けるとこができる。
没頭している間、一時的にではあるが、体は「プラモデルを作る」の1色になるのである。
ただ、ストレスは消えて無くなったわけではない。
一時的に視界から消えただけで、没頭が終わればストレスも戻ってくる。
そんな、我に返った瞬間というのは残酷なものである。
さながら魔法がとけたような気持ちになるかもしれない。
また、人は上の例のような数時間単位ではなく、長期間に渡って没頭するケースがある。
仕事での大きなプロジェクトかもしれない。
この人しかいないと思う相手への大恋愛かもしれない。
いずれにせよ、その長い期間の間で自分の周りに作られたバリアは、数時間で作るバリアとは少し違うようにできている。
自分を守ってくれた代わりに、
パリンと割れた時の破片が自分に刺さるようになっているのだ。
こう書くと結構な不幸のようだが、
特にめずらしい出来事ではない。
恋愛でも仕事でも夢を追うことでもいい。
「それに時間を割くため、友人との付き合いも悪くなっていたら、
気づいた頃には一部の友人とはほとんど疎遠になっていた。」
こういうと、身に覚えのある方もきっといると思う。
そもそも、没頭している間、当人はそれを自覚していないケースが多い。
その間は非常に楽しい気持ちでハイになっている場合も多いし、
どんな気分かなど考える余裕もないほどせわしない場合もある。
全てが終わりバリアが割れた時に、
この期間は自分の人生におけるひとつの「章」であったと気づくのだ。
没頭した時間というのはいうまでもなく、多くのエネルギーを費やしている。
人間、「多くのエネルギーを費やした先で何が残ったか」というのは無意識に追求するものだ。
仮になーんにも残らなかろうが、何か形あるものが残ろうが、
どちらも大きな物語、エピソード、そして人生における「第○章」かに当てはまる時間なのである。
無邪気に二人語った未来
次第 感じる不安のが多い
すればするほど下手になる恋
解けかけた魔法が一番辛い
(MOROHA-バラ色の日々)
私自身に経験はないが、
眠って見る夢の最中に「あっ、これは夢だ」
と気付ける人がいるらしい。
私に経験はないだけに、
そのときどんな気持ちになるんだろう、ととても気になってしまう。
少し思い当たる節があるとすれば、私が仕事の関係で福岡に引っ越した頃。
知り合いなど全くのゼロ、という状態で心は参りきっていたが、
考え方を変えれば、「どこにいっても誰も知り合いはいない、ならば恥ずかしいことはなにもない」とある日気づいた。
そこからは人間関係を自ら広げていくのが喜びになり、
輪を広げるのに少々躍起になっていた。
そこで広がった人間関係は今でも繋がっているし、そこに問題があるわけではない、
その生活の中で、「人生の中で今が一番自由なんだろうな」と気づいてしまうタイミングがあったのだ。
そんな時に唱えていたのがこの曲のこのフレーズでだった。
楽しい夢でも悲しい夢でも、覚めた時は少し拍子抜けしたような気持ちになるが、
その夢の中、没頭の中、嵐の中で我に返るというのは恐ろしい痛みが伴うような気がしてならない。
例えばかりだが、手術の途中で麻酔が切れてしまうようなイメージだ。
没頭が守ってくれることがあれば、その代償としてやってくるものもある。
その末に生まれるものが一つのドラマや、人生の「第○章」となるのなら、
乗り越えなくてはならないことのようにも思えるのだ。