この瞬間も君はきらきら輝いてんだろうな
オナニーでしか君に会えない
世の中ばかばっか
(※本日の記事は若干、下品なワードが含まれます。
よろしくお願いいたします。)
お下劣な内容だが、
私がこの世で最も好きな歌詞(フレーズ)の一つである。
突然だが以下のシュチュエーションを想像してほしい。
「僕」にはとっても愛しているA子ちゃんがいたとして、
世界一、他の誰よりも愛してる自信があるけれど、
喋ったことはほとんどない。
まあ青春映画の冒頭なんかでよく見られるパターンであるが、
そんな「僕」がその子でオ◯ニーをする、となったとき起こる悲劇が
彼女を頭の中でうまく再生できない
ということである。
彼女で妄想をするとなると、
よりリアルに作りこむために、彼女に関する情報が必要となる。
しかし自分は、
彼女が親しい人にどんな顔で笑うのか、
心許した人にどんな冗談を言ったり甘えたりするのか、
何も知らない。
自分には彼女との思い出があまりに足りていない。
すると、思い浮かべる彼女の像の97%くらいが、
自分が作り上げた人物となってしまい、
それはもはや彼女でもなんでもない。
その3%だけで、彼女自身として動いてもらうには、
思い出の素材があまりに不足しすぎていて、
雑でうそくさい妄想になってしまうのである。
私が思うに妄想というのは、
その世界の住人に役柄を与えることである。
すべての登場人物がどんな動きを取りどんな発言をするか、
自分が考えなければならない。
しかし彼らへの現実世界での情報があれば、
登場人物がある程度は勝手に動く。
短気な彼は、遅刻していけば怒るだろうし、
気まぐれな彼女は「やっぱり買い物はやめよう」というかもしれない。
つまり妄想をする上では、
自分が監督として動かす部分と、
彼らが情報を持って勝手に動く部分
この割合がおそらく大切である。
先ほどまで言っていた「僕」は後者の割合が少なすぎるので、無理やり前者で補おうとするが、なにやら嘘っぽくなりうまく映像を再生できない。
では、その前者の割合を多く持っているのはだれか?
というと彼女の大切な人である。
「僕」の被害妄想の中では、彼女は「彼」と今頃楽しいことをしている。
この瞬間も君はきらきら輝いてんだろうな
言い換えれば輝いているのである。
彼、というか彼氏は彼女の情報を腐るほど持っていて、
妄想などしなくても、有り余るほどのリアルがそばにいてくれる。
「僕」が探している素材のすべてである。
そんな「僕」は、妄想の中だけで彼女に会いにいく。
しかし、いうまでもなく実際に会えるわけではない。
それどころか、妄想の中ですら君はそれらしく動いてくれない。
それでも、
その中なら会える
と言ってのけるのは、世界一、切なさを孕んだ強さである。