「作品との出会い方」を人は重んじるものである。
それが自分にとって、良い出会い方か、悪い出会い方か。
作品を楽曲に絞って例えてみれば、
「好きな人がおすすめだというバンドのCDを借りた。」
これは好印象な出会い方だろう。
「好きな人の好きなもの」は自分も好きになりたい、という心理が人にはある。
きっと何割増しかで良いものに思えたりするだろう。
そしてもう一つの例、
「嫌いな奴がスピーカーで流していた音楽が耳に入った。」
これは悪印象な出会い方かもしれない。
先ほどの心理と真逆で、「嫌いな人の好きなもの」は好きになりにくい。
こんな出会い方でなければハマっていたかもしれないが、
実際にはなんとなく嫌なイメージが付き、自分からは聴かなくなるかもしれない。
そして、そもそも「人に勧められる」というのが好きでない人間もいる。
その理由として、
・好みでなかった場合それを伝えづらい
・感想を求められるので面倒くさい
・CD、DVDを借りたりした場合などは自分のペースで視聴できない
などがある。
また、「自分から発掘したいので」という理由もあるだろう。
「この曲は自分で発掘した」という事実が欲しい人間。
私は人に勧められハマったものも山ほどあるが、この心理は少し理解できたりもする。
このように、
人は作品との出会い方、それが好意的な出会いであったかを重んじるものだ。
そんな「出会い方」の一つとして少々争いを呼んでいるのが、
tiktokで使われる音源である。

↑(画像クリックでtiktok公式へ)
tiktokとはここ数年で急激に成長した動画投稿サービス。
「既存の音源・リズムに合わせて踊る」という形式の元、
多くの若者がその姿を投稿するようになった。

ここで使われる音源のジャンルは幅広く、
J-popを中心とし、ほぼ全てと言っていいだろう。
年代においては利用層の親世代が聴いていたようなものもある。
そのため10年代の若者がここで新たな曲を知るという機会は多いだろう。
しかし、そんな出会いを疎ましく思う層もいる。
利用された曲(アーティスト)の元来のファンである。
自分たちの元へ、彼ら「tiktok層」が流れてくるのを嫌うのである。
利用された曲のyoutubeコメント欄では、
tiktokから流れてくる層への熱いと牽制と攻撃が見られる。
「『tiktokから!』、、、のやつらうざい、、、」
「tiktok層流れてこないでください」
などその言葉は理屈を含んでいない。
とにかく嫌なのである。

しかし、言葉にしないだけで理由はきっちり存在する。
その二つの理由を私が代わりに説明したい。
一つ目は改変の激しい曲を使うためである。
原曲から勝手にピッチをあげたり、テンポを2倍くらいにしたりとやりたい放題。
先ほどリンクを貼った「め組のひと」はまさにそんな具合で、
ラッツ&スター「め組のひと」の倖田來未カバー版をさらにテンポアップして使っている。
まあ「踊るためのBGM」としてtiktok上で使うには間違ってはいないが、
「あの曲知ってるよ! めっちゃ好き!」と言って、
2倍速くらいのバージョンを歌われたらそりゃあ「は?」となるだろう。
二つ目の理由は、
tiktokに動画投稿する行為自体を不可解に感じるためである。
芸能活動もしていないのに、自分が踊っている姿を撮影しネットにupするのは、
「気がしれない」と思う人もいて当然である。
プリクラ機のカメラに向かって「イェーイ」とポージングとするのとはわけが違う。
その撮影データは写真として受け取り口には出てこず、そのままネットの海へと流れ出すのである。大変恐ろしい。

そんな事実もおいといて今を楽しむ若者の姿は、
まあまあ多くの割合の人間から「気が知れない」と思われているのである。
「気が知れない」と思う人間が自分たちの領域に踏み込んできたらそりゃあ嫌だろう。
しかし、だ。
この拒絶するまでの流れ、
tiktok利用層からすればどんな出来事だろうか。
「tiktokで新しく曲を知った。
でもこれはアレンジバージョンらしいので本家を聴いてみたい。
まずはyoutubeにジャンプして…」
という流れの末、コメント欄で拒絶的な内容を見たらどう思うだろうか。
いわずもがな、楽しい気持ちは削がれるだろう。
もともと、音楽でもなんでも古参ファンは新規層を嫌うものである。
しかし、「誰でも最初は新規層」という確実なアンサーがあるので、
今回のtiktokの件ほどは争いにならない。
tiktokの件に関しては、これに匹敵するほどの強いアンサーがまだ浸透していないのである。
なぜtiktokのケースだけ話がこじれてしまうのか。
その原因として挙げられる一つの可能性が、
「良い出会いか、悪い出会いか」というのを外野がコントロールしていることである。
別の言い方をしてみよう。
「tiktokから曲を知る」というのが悪い出会いだという風潮を外野が作り出している
のである。
私が冒頭に挙げた「良い例、悪い例」の例えを思い出していただきたい。
あれら全て、「自分の中で」良いか悪いかを判断できるものであったのだ。
私は、それこそが出会いの形であり、与えられた当然の権利だと思っているので、
例として挙げたのである。
本記事で最も私が言いたかったことを先に言うと、
人の出会いの邪魔をしてはいけない、ということである。
どれだけ、自分にとっては不可解な思考の層が流れてくるとしても、
それを「取り締まる」権利はまっったく無い。
なにより、ファン層が変わったとて、作品そのものの価値が落ちることはない。
あなたが思うその作品の「好きだ」と思う部分だけを信じていれば良い話である。
作品との出会いだけでなく、人同士の出会いもそうだ。
近年マッチングアプリなるものの浸透率が上がってきたが、
かならずこの出会いの形に対しての「取り締まり層」がいる。
まあ、マッチングアプリで出会うという行為が「良い」か「悪いか」、
「好きか」「嫌いか」は人による。
そう、「人による」という至極当然で自然な状態をそのままにしておけばよいのだ。
どちらかがどちらかを脅かそうとすると、その二つの考えを持つ人間がいつしか「派閥」という分けられ方になり、そのタネとなるマッチングアプリ自体が疲弊し衰退するのである。
結論は至極単純で、
「人の出会いを邪魔したら駄目」とそれだけである。
2021年、出会いの形やルートは本当に色々ある。
それはとても便利で、素敵な事実であるはずなのだ。
ちなみに私は、代表曲「ツバサ」で有名なアンダーグラフを陣内智則のコントで知った。
思わぬ形であるが、本当に知れてよかったと思っている。
陣内さん、ありがとう。