「深夜に書いたラブレターは刺さる」は本当か?
深夜に作ったもの、というのは何かしら不思議なパワーを孕んでいる。
ラブレターであればその正体は「疾走感」である。
ラブレターをすらすら書ける人間というのはおそらくいない。
おそらく直接は言いにくいから、とか文章の方が思いが伝えやすいから、
などの理由で書き始めたのだろうが、
いざ書くとなるとすらすらとは書けない。
それはそうだ。
なぜなら制限時間というものがないためである。
面と向かって告白する場合、
いくら事前にそのセリフなどを練習していようが、実際に与えられる制限時間は数分程度のものだろう。
しかし、ラブレターを書くとなれば、その数分に詰め切れなかった分まで詰め込まなければならない。
そうなると今から何か創作活動でも行うような気分になってくる。
同時に、ラブレターを渡すという行為が一世一代の勝負事のように感じられてくる。
書くのは創作活動、渡すのは勝負事。
そんなものすぐには書けない。
むしろ、パパッと仕上げてしまってもなんだか心がこもってないような気がする。
いつしか時間は深夜になり、創作活動はおかしな方向へ向かっていく。
原因は一つで、疲れが出て来るからである。
学生であれば学校から帰り、部活なりバイトなり終わったあとだろうか。ここから一日で一番脳を使うイベントが訪れるのである。そしてやったこともない本気の創作活動に挑むが、これが本当に疲れるのである。
では疲れるとどうなるか?
簡単にいうと文章が「適当」になっていく。
※(適当というのは「テキトー」の方の適当である。これが一番伝わるはず。)
こう書くと重たいかも、
こう書くと馬鹿だと思われるかも、
でもそう書くと長くなりすぎるし、
そもそも字が汚くなってきたからやり直しだ、
と初めはいくつか設けていた制約も、スタミナが切れるごとに緩くなっていく。
人はどんなに一世一代の勝負を迎えていても、疲労には勝てない。
しかもラブレターの場合、「自然体で書いた方が嘘がない」などの逃げ道があるので、より緩くなりやすい。
そうしていろんな制約を取っ払って書いた文章は、最高記録のスピードで書き上げられていく。
そのスピード感は必ず作品に宿るのである。
遠回しの表現も面倒だからなし、
字も間違えたが修正テープでよし、
紙の端の方が手汗で「じわ..」となったが良し!!
交通事故現場でブレーキが効かずスリップした車のタイヤ痕のように、確かに残る疾走感!
これが深夜に創作活動をすると生まれる面白みである。
そして最も大事な話。
タイトルにもあるように、こんな風にして書いたラブレターは「刺さる」のか?
刺さるかどうか、これもギャンブルである。
重要なのは相手がタイヤ痕をどう捉えるかである。
そもそもそんなに好意のない人間からのラブレターであれば、タイヤ痕から受ける印象は「うわっ、事故だ!」である。
そりゃあそうだ。ブレーキのない車が全力疾走しているのだから、そこらへんを走っているだけでも十分問題である。
逆にこれが「まっすぐな思い」として伝われば勝ちであるが…
そのどちらに転がるかはギャンブルである。
初めに言いました。ラブレターを渡すというのは勝負事である。
手痛く負ける事だってあるさ。