君と出会った奇跡がこの胸にあふれてる
きっと今は自由に空も飛べるはず
スピッツ/空も飛べるはず
知らない、という方は恐らくいないであろうこの曲。
今回書きたいのはそのタイトルについてである。
「空を飛べるはず」ではなく「空も飛べるはず」であるその意味。
このフレーズを細かに言い換えるならば、
君と出会ったという奇跡を噛み締め、
その喜びに満たされている今なら、
「空を飛ぶ」ことだって、できてしまう気がする
という具合である。
そして、もうやっておいて言うのもなんだが、
このフレーズをこんな風に細かく解説するのは大変野暮である。
なぜなら、
多くの人はここまで説明しなくても大体理解できる為だ。
先述したほどはっきり言語化はできずとも、
「空を飛べるはず」に比べれば、
「なんとなく希望に満ちた雰囲気」であるとか、
「気分が舞い上がっている様子」を感じていると思う。
こんな風に、視聴者に無意識に考察させる理由。
「空も飛べるはず」というフレーズが曲名としては言語的にやや不自然なためである。
この「曲名としては」というのが肝であり、文章の中の一部であればなんら問題ない。
君と出会ったという奇跡を噛み締め、
その喜びに満たされている今なら、空も飛べるはず
赤文字の部分が曲名では省略されているので、若干の不自然さを生んでいるのだ。
しかし、受け手はこの省略された部分をひとりでに想像する。
これがこの手法の面白いところ、そしてメリットである。
当然の話だが、
歌詞というものは小説等の文章作品よりも文字数が少ない。
そのため全てを細かく説明することが出来ないのだ。
だからこそ、省略が必要となる。
例えば
「その時、少し不安を覚えた私は足取りが重くなった」という文章があるとする。
これを歌詞ならば「足取りは重くなる」とだけ書く。
これだけでも十分に、マイナスな感情あってのことだと推察できる。
また、歌詞は文章より「説明的」ではあってはならず、
同時に「詩的」であるほうがそれらしいので、
「行く人みんなに追い抜かれる」などにすると、より歌詞っぽくなる。
このように、歌詞は「省略的」かつ「詩的」であるものだが、
曲名もおおよそ同じである。
歌詞に比べると「詩的」である必要性は薄くなる一方、
「省略的」である必要性が増す。
ここで本曲のようなささやかな仕掛けを入れることで、
曲の中身に触れる楽しみも増すのである。
「とべとべおねいさん」のある一節が心を打つ話(クレヨンしんちゃん 主題歌)
(↑省略的に書くことの魅力を、直近で最も強く感じた一曲について。あわせてぜひ)
このテケテケ天国で、色んな考察やらなんやらを書けるのも、
歌詞や曲名がすべて省略的だからである。
全てがそこで説明されていれば、答えはもうそれしかないので追究する必要性も楽しさも無くなるのである。
だから詩(歌詞)というものは面白いし、唸らせるようなものに出会うと心躍るのである。
ちなみに、「キラーフレーズなるものは日本語として少し不自然」という仮説に基づいた記事をまた書く予定なのでそちらもぜひ。