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心の声メロディ化計画

また今度飲みに行こう (岡崎体育-鴨川等間隔) 心の声メロディ化計画 5曲目(続)

また今度飲みに行こう (岡崎体育-鴨川等間隔) 心の声メロディ化計画 5曲目の続編的内容ですが、本記事単体でも雑記として読めます。
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もめでたくないのに乾杯していた。
それでも、
カンパーイと叫べば、今から楽しい時間が始まるという気持ちになる。

2021年5月現在、言わずもがなだが乾杯など出来ない状況である。
人間、取り上げられると返してもらいたくなるもので、
私はとっても乾杯したい気分である。

「また今度飲みに行こう」の「今度」はこんな風にして簡単に遠ざかる。
誰がこの展開を予想できただろうか。

しかし、過去記事でも散々書いたが、
物理的にそれが叶わないわけではない。
本当に「今度」を求めるなら今すぐ連絡してオンライン飲みでもすれば良い。
言い訳など泉のように湧いてくるものである。

それならいいや、と思ってしまう自分を憎らしく思う反面、
そんなもんだ、と納得する気持ちもある。

 

自分は、人との繋がりが途切れるというのが恐ろしい。
これまで色んな人と出会って、楽しく話して、
連絡先も交換して、また今度飲みに行こう、
と言った人が、たくさんいる。

その人ら全員とこれからもずっと親しくしていくのは不可能だが、
もう二度と会わないかもしれないと思うとなんだか恐ろしくなる。

人間関係やその相関図というものは、よく枝のように広がって表現される。


(↑は家系図だが、イメージだけ伝われば)

なんの気にも止めない枝葉であっても、
ブチリとハサミで斬られると痛いし辛い。
文字通り身を切られるような思いである。

そう思うと、もう二度と会わない人も、
「一応」自分の一部になっているのである。

思い出からすぐさま消え去ってくれて構わないような奴でも、
ブチリと裁断できないし、
すべては自分の枝葉になっている。

ちなみに枝葉の例えは今思いついたのだが、
自分の気持ちに合点がいった気分である。

話を戻すが、
乾杯したいと思っている人たちはたくさん居ると思う。
つまり、次に乾杯できるときは、
本当に祝いの気持ちを込めて乾杯できると思うのだ。

その時はぶつけたジョッキが砕け散るくらい力強く乾杯をしたい。