星野源の曲は歌詞が覚えにくい。
私がそれに気づいたのは後のロングヒット曲「SUN」がリリースされたあたりであった。
Baby 壊れそうな夜が空けて
空は晴れたよう
Lady 雲には小川流れ 鳥は歌い
一番冒頭の歌詞を今、おぼろげな記憶の中書いたが、
正解を調べたところやはり間違っていた。
「Lady」が「Ready」だったのはともかく、
「雲には小川」でなく正しくは「頬には小川」であった。
そしてこの曲も。
胸の中にあるもの いつか見えなくなるもの
それは側にいること いつも思い出して
この曲を知らない人はいないのではないか。
国民的大ヒットを飛ばした「恋」より、サビの冒頭歌詞である。
それぞれの節の語尾が「もの」だったか「こと」だったかが分からなくなる。
気持ちよく口ずさんでいるときほど「もの」と「こと」を間違えてしまう。
しかし、皆様思われないだろうか。
どっちでもよくね?と。
そう、どっちでもいいのである。
理由は単純で、これらの歌詞に意味はないからだ。
空が青かろうが雲が流れようが鳥が歌おうが、別段耳に残ったり心に響くことはない。
「空が流れ、雲が歌い、鳥が青い」でもそのまま聞けるだろう。
意味がない言葉というのは覚えにくい。
例えるならば、
三人同時に自己紹介されて、
「山下です」「上田です」「田村です」と言われたようなものである。
個性がなさすぎて覚える気にならない。
「鬼瓦です」「蛇崩です」「八文字です」と
言われた方がまだ、覚えたろかという気になる。
ちなみに二人目は「じゃくずれ」である。
この「覚える気になるかならないか」というのが重要なポイントであり、
星野源のこの二曲の歌詞については、
覚えなくてよい歌詞、として意図的に書かれている。
いわゆる「初期」の星野源は濃厚でストーリー性のある歌詞を残していた。
代表的な一曲である。
人間らしさの最たるところを、拡大も縮小もせず歌う。
何も添加していないはずの、
夕方の風呂場に立ち込める湯気の温度や、
「いってらっしゃい」と言えなかった束の間の後ろめたさが美しく照らされるのである。
そんな曲たちが徐々に評価され、俳優業や文筆なども経て、
彼は瞬く間に国民的スターとなった。
そしていつしか国民を踊らせる存在になった。
踊ることと、理解しようとすることは対極にある。
ときに、なんのエネルギーも絞り出さず楽しいことをする象徴が「踊る」こととするなら、
そこに理解が必要な要素が介入してはいけない。
セルアウトではなく、
踊らせるためには歌詞部分は明るく、ある程度のキャッチーさを含ませる必要があった。
そうするため、歌詞から「理解させる、覚えさせる」という消費エネルギーをそぎ落とし、
踊りやすいように仕上げたのだ。
「歌って踊れる」とか、
「ギターもピアノも弾ける」
などというマルチ性はどの業界でも評価されやすく、同時にカリスマ性を生みやすい。
「マルチな才能」の代表格である星野源。
「なんでもできる」彼が、受け手には「踊りやすい」ように他要素を省略して作品化している。
クリエイターとしての才能であるとともに、優しさとしてすら受け取れてしまう。
覚えなくていい、意味も特にない、
からって歌詞として空っぽなわけではない。
ファンにとって「歌詞の深読み」というのは曲を楽しむ醍醐味の一つである。
それぞれが思うように深読みをし、何か気づいたり、自分と重ねることがあれば、より楽しい。
星野源が体現している「キャッチーとマニアック」の両立はここにあったのである。