突然だが、ユンゲラーというポケモンをご存知だろうか。
スプーン曲げで有名な超能力者「ユリ・ゲラー」がモデルとなったこのポケモン、
そのイメージ通り、超能力を武器に戦う。
そしてこのユンゲラー、進化すると「フーディン」という強力なポケモンになるのだが、
(かっこいい)
問題は、ゲームのポケモンにおいてその進化に必要な条件である。
多くのポケモンはバトルして経験値を積むだとか、
特定のアイテムを使うだとかが条件なのだが、
ユンゲラーの進化に必要な条件は「誰かの元へ通信交換で送る」である。
通信機能の「ポケモン交換」で誰かの元へ送られた時、
ユンゲラーはフーディンに進化する。
なので進化させたい場合は、
一度友達にユンゲラーを送り、進化したところでまた送り返してもらう、
という手順が主となる。
なぜ誰かの元へ渡ると進化するのか、については先日私が書いた記事
【考察】なぜ「ドわすれ」すると「とくぼう」が上がるのか? (ポケモン)
よりもさらに不可解であるが、今回のテーマはそこではない。
この条件、通信交換をする相手がいないと成立しない。
つまり、友達がいない人間はいつまで経っても進化させられない。
そういった人間はどうするかというと、
ユンゲラーを進化させぬままひたすらレベルを上げてしまうのだ。
もしレベルマックス(Lv.100)のユンゲラーがいれば、
それは孤独の象徴といえるだろう。
外界を知らぬまま育ってしまった存在は、不思議なエネルギーを孕むときがある。
その最たる例として私が今回挙げるのが、「一人で経験した思い出」である。
例えば一人旅の思い出。
自由気ままに過ごした旅はきっと良い思い出になるだろう。
ただ、その思い出は共有されない。
これがいかに自分にとって素晴らしくかけがえのない旅であろうが、
周りからすれば「エピソード」としてしか聞くことしかできない。
この「共有されない」という事実が、同時に「色褪せない」という理由にもなる。
思い出という実体のないものでも、誰かと共有すると、
「誰かにとってはこう」だという別の価値観が提示されるためだ。
私が大学生の頃、サークル仲間と行った旅行。
天気に恵まれず、移動の船は揺れるわ観光中も風が強いわで苦労した。
私はそんな不運や苦労含めて楽しかったのでいい思い出にもなったがまわりはそうでもなかったようで、居酒屋などでその旅行の話をするといまいち盛り上がらず、
その温度差に少し寂しさを覚えた記憶がある。
これは仕方ないことであり、こんなに詳しく書くほど特別なことでもない。
そして、別の可能性として、
一緒に行った仲間たちも「楽しかった」と同意してくれたなら、
私の中でもその思い出は一層輝いたはずだ。
しかしその輝きは、「一人で抱える思い出」が帯びる輝きとは質が違う。
先に「不思議な」エネルギーを帯びるといったのはここである。
そろそろ結論にいこう。
共有して輝く思い出=フーディン
共有せず輝く思い出=ユンゲラー と、
の違い。
それは、その思い出の「解像度」の違いである。
フーディンの思い出の方は、
定期的に皆と共有することで、思い出の種となる「見たもの」や「起きたこと」の照らし合わせが行われる。そのため、その事実が改変されることはなく、くっきりはっきりしたものになる。
一方、ユンゲラーの思い出の方は、
自分「だけ」が自由に思いだすだけのものであり、そこで「見たもの」や「起きたこと」を照らし合わせることはない。
ただ自分の中で何度も再生することにより、カセットテープのように映像の質(解像度)が落ちていく。 この解像度の低下こそ、美化の正体である。
美しい思い出というのはどこか「もや」がかかっていて、
色も褪せてモノクロやセピアになる。
このユンゲラーの思い出とフーディンの思い出は、どちらが上等などということはない、と私は思っている。
同時に、私の人生の思い出は結構な割合でユンゲラーの方が占めている。
だから私の思い出はわりと色褪せていて、もやがかかっている。
たまに誰かに共有したくなるのは、
それを防ごうという心理が私の中にはあるのかもしれない。
となると、私はユンゲラーよりもフーディンの思い出の方が上等だとどこか思っているのだろうか。
そんな深層心理のことなど考えても埒が明かないが、一つだけ言えるのは、
ポケモンのゲーム上でLv.100のユンゲラーはどうしたってLv.100のフーディンには勝てないということである。