(前編)リーガルリリー『トランジスタラジオ』J-rock史に残る歌詞、その熱量
に続く後編である。
前編はべらべらと前提の話のみで終わってしまったので、まず曲の紹介から。
東京発、2014年結成のスリーピースバンドである。
そのリーガルリリーの楽曲より、2017年リリースの「トランジスタラジオ」。
MVと一緒に視聴すれば、まずその演出が気になる。
舞台は交通事故現場で、メンバー達が血にまみれ横たわりながら演奏をしている。
と、いうか死んだまま演奏をしている。
時折映る高級車と接触したようで、その運転手も車内で息を引き取っている。
トランジスタラジオ、は現場の警察官が使う無線機から聞こえる声のことだろうか。
ここからおのずと感じられるテーマは「死」であるが、
歌詞に触れてみると、ただそれだけでないとわかる。
あすをみうしなわないでいるよ
日々の体温と快楽を全部忘れても
(リーガルリリー/トランジスタラジオ)
サビ冒頭の歌詞である。
「日々の体温を全部忘れる」、
つまりは、生命を失い冷たくなってしまうこと。
そんな体では味わえた快楽も味わえなくなる。
それでも、「明日を見失わないでいるよ」と歌う意味。
このフレーズがのちに重要になるのだが、一度置いておいて次の歌詞。
プラットホーム
あぁ過ぎ行くサイレン
日々よ ぼくよ とまれ
(リーガルリリー/トランジスタラジオ)
突然、緊迫感を孕んだ場面に。
「ぼく」が考えるのは、プラットホームからの飛び降りである。
今、正に死を考えている「ぼく」は、唱えるように歌う、
「日々よ ぼくよ とまれ」と。
ぼくよ、とまれというのは、
今踏み込もうとしている自らの体、そして心に対してであろう。
一方、気になるのは「日々よ、とまれ」の方であるが、この「日々」は限りなく多くの要素を総称したものと思われる。
追い詰められた人間は、自分を蝕むストレスの原因や対象というものを一つ一つ整理できなくなる。
それが出来ない精神状態だからこそ、最悪の選択を取ってしまったりするのだ。
ましてや今、何十年か知らないが長く続いた人生を終わらせようというとき、
いわゆる走馬灯が訪れるようなタイミングでは
「今から命を断つ」こと以外の要素など頭にない。
つまり世界は「現時点で生きているぼく」と「それ以外のすべて」に二分化される。
すべてって何?と聞かれれば、本当にすべてである。
「現時点で生きているぼく」を終わらせる原因となるのは、消去法的に「それ以外のすべて」であり、それを言い換えたのが「日々」ではないかと思う。
「ぼく」をこうさせた原因やら、もう会えなくなる人の顔やらなんやら、すべて止まれ。
「とまれ」という言葉を選んだのは、
迫り来る電車にそれを置き換えたのではないだろうか。
迫る電車(日々)、そして「ぼく」に止まれと唱える。
この刹那的な思考の描き方は大きな熱量を生んでいる。
これを前回書いた内容で言うなら「フラッシュバック的熱量」である。
起こった出来事を「思い出」として捉えるのでなく、
ただ語り部のようにその瞬間の情報のみを描く。
しかし、それで終わるならばこれほど長い前提ののちにわざわざ紹介しない。
起こった出来事を「思い出」として捉えないというのが、
フラッシュバック的熱量の歌詞と書いたが、
そもそもで考えて欲しい。
「死んだ」と言う出来事を本人が、
「思い出」として語るのは不可能である。
一度死んでしまえば、そこから過去を振り返るもクソもないからである。
しかし、である。
ここで思い出してほしいのがワンフレーズ前にあった「あすをみうしなわないでいるよ」。
「明日を見失わない」というが、今ここで死ぬならば「明日」などやってこない。
その後に続く「日々の体温と快楽を全部忘れても」を「死んでも」に置き換えて、
「明日を見失わないでいるよ、死んでしまっても」と歌詞を整理しても、意味が通らなくなってしまう。
この問題に一つの仮定(推測)を当てはめれば、意味は通じるようになるのだが、
MVで明らかに死体のまま演奏を続ける彼女らのように、
死後の世界も平然と生き続けることを前提としている、ということである。
ここまで考えると、突然うさんくささとフィクション性が増してしまい、同時に先ほどまでの緊迫感が緩み始める。
「え?死ぬなんていってないよ?」とすら言い出しそうな軽いテンションすら感じてしまうのだ。
何より、死後の世界が存在するならば、「死んだ」ということを本人が思い出として語ることも可能になってしまう。
ならばこの曲の熱量の正体が「フラッシュバック的熱量」でない可能性が出てくる。
この曲の持つ熱量が、前回でいう「自ら触れる熱量」と「渡される熱量」のどちらでもあるとすれば、非常に珍しいタイプの曲と言える気がする。
「死」というテーマ自体が主にその原因となったと思われるが、
ゾッとするほどリアルな緊迫感と、突拍子もないようなフィクション性を同在させ、
視聴者をここまで振り回すという憎らしさも持った作品である。
と、本曲への考察はここまで。
追記程度に私の考えを書くと、
「考察」なんてものは、ファンのオナニー行為だと思っている。
時にとんでもない深読みをして、曲を誰よりも深く楽しんだと満足する。
そんな誰かの考察を聞いて「なるほど!すげー」と思う時もあれば、興ざめに晒されるときもある。時に「自分ならこう作る」という意思が介入するように思える場合があるからだ。
抽象的要素の多い作品などはそういった被害に晒されることも多いが、
個人的には、ファンからそんな労力を引き出すだけでも名作の証だと思う。
曲に関わらず、凡作というものは人の記憶に残らないし、話題にもならない。
そんな中、視聴者にインパクトを与え、何回も視聴させたり、各々の感想や考察を持たせるというのは、
やはり作品そのものの力であるに違いない。